直線上に配置
小島芳子の闘病生活
(0)
芳子は2003年の3月4日に昭和大学藤が丘病院で肺腺癌の手術(左肺下葉切除)を受け,その後しばらくは音楽活動を続けた期間がありましたが,年末になって癌性胸膜炎が進行して再入院,翌2004年2月16日に,癌転移が急速に進み全身状況が悪化するなかで,郡山のトータル・ヘルス・クリニックに転院しました。郡山では,先生との信頼関係のもとに,一時は「別人のように」元気になりましたが,3ヶ月後から病状が急速に悪化し,5月21日に亡くなりました。この癌闘病期間の前史である「松葉杖時代」から話を始めます。

(1)
2002年8月20日の骨折から始まります。家の階段を3段目から下へ落ちただけで,右のくるぶしと小指の骨を骨折し,金属棒で骨を繋ぐ手術をし,しばらく松葉杖の暮らしとなりました。この時期は「松葉杖コンサート」として以下のような充実した演奏活動を続けました。
  • 2002年9月21日 東京芸大奏楽堂のシリーズ「オルガン+α」第3回に参加。F. クープランのチェンバロ・ソロなどを弾く。
  • 2002年9月28日 ハーモニーの家(蓼科) チェンバロとヴィオラ・ダ・ガンバ(夫・福澤宏)による「バッハの夕べ」
  • 2002年10月10日(東京),10月12日(水戸芸術館),10月13日(栃木市)「ミトデラルコ演奏会」にフォルテピアノで参加
  • 2002年10月14日 高田あずみ,森田芳子,鈴木秀美と「ピアノカルテットの夕」(浜離宮朝日ホール)
(2)
2003年1月31日に骨折治療の最終段階で,それまで入れていた金属棒を取り去る手術に備えて胸のレントゲン写真を撮ったところ,肺に影が発見され,振り返って骨折当時の写真を調べると実はその時から同じ大きさの影があったことが分かりました。肺癌と診断され,ここまでは川崎市麻生区の麻生病院でしたが,その後,3月4日に横浜市の昭和大学藤が丘病院で手術をすることになります。

手術前の2月9日には鈴木秀美さんと浜松楽器博物館の,浜松市楽器博物館での「シュトライヒャー・ピアノで聴く珠玉の(ベートーベン)中後期作品」に出演しました。これが鈴木秀美さんとの共演の最後になりました。

(3)
藤が丘病院では肺腺癌I期と言われて,左肺下葉切除の手術を受けました(3月4日)。実はすでに胸腔の縦隔のリンパ節に癌が転移しており,少なくともIII期aの段階でした。手術はすべきではなかった,と今では思います。それ以後も病状については,正しい情報がいつも伝えられませんでした。芳子は「治療法は自分で決める」という方針を貫いてきました。その患者に情報を正確に伝えないことの結果は正に致命的であり,犯罪行為です。

3月15日に退院,東京芸大と東海大の仕事に復帰し,大事なコンサートである
  • 2003年6月31日 「19世紀末エラールピアノで聴くフランス歌曲の夕べ」(浜離宮朝日ホール)
をやり遂げました。感動的なコンサートでした。この頃の芳子は,私(芳子の父)も母・章子も遅れずについて歩くのが大変なほどの速い足取りで,30分位も歩いていました。

しかし,7月になると左の胸膜内に胸水が溜まりはじめ,今思うともう癌性胸膜炎が始まっていました。肺癌のステージはIII b というわけです。その中で芳子は
  • 7月2日(昼・夕の2回) 夫の福澤宏のヴィオラ・ダ・ガンバと共演の「デュオの饗宴:Bach作品」(木島邸3F音楽室)
  • 7月30,31日 東京芸大・公開講座
  • 8月16日〜20日 都留音楽祭の講習と演奏(波多野睦美さんとデュオ,そしてシューベルトのピアノ・ソロ)
などの活動を続けています(前年の都留音楽祭は,直前の骨折で急遽代理の方に頼んでいます)。

秋になると胸膜炎が進行し,まず東海大の講師を辞めました。夫・福澤宏と共演した
  • 11月9日 チェンバロとガンバによる「ヴェルサイユの華 フランスの宮廷音楽」(麻布セントメアリー教会」
が,芳子にとっての最後の公開演奏となりました。苦しい体調でしたが,完璧にやり遂げました。

(4)
胸水が溜まることによる苦しさが募り,12月1日から藤が丘病院に再入院しました。左胸腔から多量の胸水を抜き,その後で胸膜をピシバニールという薬品で癒着させるという処置をしました。年末になって,イレッサという飲み薬の抗癌剤を服用しはじめ,そのための要請で,翌2004年13日まで入院を続けましたが,実際は自宅に帰っている日が多いようでした。元日に向原の芳子・宏の家に家族が集まり(これが最後となった)新年のパーティーをしました。

この頃から急速に癌が拡大し,全身的に弱ってきました。期待したイレッサは結局は効かなかったのでは,と思います。服用量が標準の1錠の(平均して)1/4程度と,少なかったことも絡みます。

1月30日に3度目の入院をし,危機的な状況のなかで郡山へ搬送する2月16日まで藤が丘病院にいました。入院中の2月2日に東京芸大の修士学生の,学内の「試験コンサート」に酸素ボンベ持参で出席したのが芸大での芳子の最後となりました(事前のレッスンのために,自宅に戻ったりもしていました)。

手術をした左だけでなく,右の胸膜にも胸水が溜まりはじめ,今度は右にドレーンを入れて抜くことになりました。左肺の残された上葉も怪しくなり,腹部も腹水で膨れ,心臓の周りにも水が溜まり,数か所の骨にも転移していることが分かりました。痛み,咳,呼吸困難,消化器圧迫による食事困難,栄養不良、そのための浮腫など,すべてが一気に悪化しました。ステージはIV ,完全な末期です。病院に対しては,栄養不良に対抗するための中心静脈栄養(IVH)とアルブミン(血漿の主成分)の点滴を要求しての「闘争」が大変でした。

(5)
郡山のトータル・ヘルス・クリニックへ,芳子は2月16日に転院しました。それは土屋繁裕という医師を頼ってでした。彼は東京で「cancer freetopia」という癌の相談室を開いていて,2003年12月から我々は「セカンド・オピニオン」を求めて相談に行っていたのです。藤が丘病院でいわば見放され死が迫っている状況で,芳子を土屋医師は患者として受け入れてくれたのです。そのことに深く感謝しています。ここはかなり小さな医院ですが,スタッフの皆さんは大変暖かく,建物の設計もよく考えられてセンスが良く,素敵な環境です。

我々家族(両親と弟)は郡山市の医院の近くにマンションを借り,介護の体制を整えました(その家賃を払っているのは年金生活の両親に代わっての弟・浩です)。一番大変なのは夫の宏さんで,仕事のない期間はいつも芳子の病室に泊まり込み,マンションは芳子の食事作りと洗濯などの場所でした。宏さんの仕事の期間は,両親のどちらかがマンションから一日3回,病室に通う生活になります。浩は週日,マンションから早朝東京の勤務地へ向かい,帰りは8時近くに病室に寄る,というパターンが多かったです。

郡山の医院では,まともなIVHとアルブミン投与などで全身状態を改善し,右の胸水を抜くドレーンも正しく付け替え,改めて抗癌剤治療が開始され,芳子は郡山への搬送の直後と比べて見違えるほど(別人のように)元気になりました。4月13日にはすべての管を外して,近くの公園に桜を見に行き(母の運転する車でですが),その帰りに芳子は始めて我々のマンションに入りました。「ここで宏君は料理を作るのか」と感想を言いました。その数日後,宏さんが芳子のチェンバロをマンションに運び込み,「いつでも練習できる」環境が整いました。土屋医師との会話の中で,「医院のロビーでチェンバロとガンバのコンサートを」という計画が浮かび,芳子はそれを闘病の励みにしていたのですが,結局は一度もこのチェンバロに触れることなく終わりました。

(6)
その後,抗癌剤治療がトラブルを起こしたことなどで体調は悪化し,入院3ヶ月余り後の5月21日に死を迎えることになります。もともと,郡山搬送時の芳子の全身状況では,治療における選択の幅は極端に狭められていたのです。芳子は土屋先生を人間的に信頼し,患者・家族と医師が「一心同体で」考える,という関係が本質的には維持されました。

郡山に来ることは芳子の強い希望でした。途中,かなりな程度元気にもなり,精神的には完全に「小島芳子」であり続け,苦しい中でも(殆ど最後まで)将来への希望を持ちながら,死んで行きました。この経過は大変痛ましいですが,私は3ヶ月あまりの郡山での「引き延ばされた人生」を肯定的に捉えたい,と思います。

死に向かう時間経過のなかで,一年前から公表されていた(当然キャンセルした)浜離宮朝日ホールの「ソロ・リサイタル」の日(4月27日)を迎え,波多野さんと予定されていた「モーツァルト歌曲の夕べ」の日(5月19日)を迎えたことは,芳子にとってつらいことだったと思います。また,芳子に学ぼうとして大学院にこの4月に入学した二人の学生の指導ができなかったことにも,つらい思いをした筈です(指導を引き継ぐ方に,「よろしく」とお願いのメールを書いていました)。

病室では,これまでの健康な時期には考えられないほど長い時間,主に友人たちの演奏のCDを楽しんで聴いていました(自分自身のCD はこれまで同様,絶対にと言えるほど聴かないのですが)。人の音楽を聴くことが今後の芳子の演奏に何かの影響を与えるのでは,と期待もしたのですが,すべては終わりました。

クリストファー クラーク氏には新しい6オクターブのピアノを依頼し,(すでに代金の全額をユーロで送り)5年以上も待っていました。2003年夏が契約上の予定日で,それは彼にとって恐らくはじめての「クラーク・モデル」のピアノであり,芳子に合わせた「芳子仕様」のピアノでもありました。つねに our piano と彼は書いています。

芳子の病気を最近知った彼は,メールのやりとりの中で「これから全力を挙げて,急いで作る」と言ってきたのですが,結局間に合いませんでした。このピアノの到着によって,ベートーベンの中・後期やシューベルト,シューマン,メンデルスゾーンを含めて,芳子に新しい世界が開ける筈でしたが,その期待もむなしく終わりました。このピアノが来たら「秀美さんとメンデルスゾーンを弾き,CDも作る」と芳子が話していたことがあります。

(7)
5月15日からの最後の1週間に,信じられない速さで病が進行し,痛みと苦痛,そして衰弱が強まりました。死前日の5月20日夕に私が郡山に着いたとき,変わり様に驚き,覚悟を決めました。

咳をすると胸に激痛が走り,しかし一方で咳で痰を排出しなければなりません。東京から夜9時過ぎに戻った土屋先生と抗癌剤の相談をし,初めて試みるナベルビン5 mg の点滴を決めました。リスク覚悟ですが,苦しみの原因は癌の進行なのだから,もしナベルビンが癌に効くならば,その分だけ体を楽にする効果が,直ちに期待できる,と考えました。点滴のモルヒネの量を増やし,眠剤も使って,深夜12時には静かになったそうです。ナベルビンの点滴がその中で実行されました(もちろん,翌朝の死という結果からは,それは無駄であり,有害であったかも知れません)。翌日早朝,マンションに帰っていた私は,いつも通り病室に泊まり込んでいた宏さんに電話で呼び起こされて病院に急ぎました。芳子の呼吸が微弱になっていて,人工呼吸器の準備をしているうちに,心臓の方が停止し,呼吸器を使うことなく,21日の7時46分に亡くなりました。立ち会ったのはスタッフの他,宏さんと私(父・小島順)の二人でした。

死後の芳子は,昨夜の苦しい表情と全く変わってとても穏やかでした。有松陽子さんは上述の5月19日の波多野さんとのコンサートに向けて,芳子のステージ衣装のデザインを考えておられたのですが,上述の「病院のロビー・コンサート」のためにそのままのデザインで衣装を作って下さいました。死の二日前であった5月19日に陽子さんはそれを病室まで届けてくれました。結局ロビー・コンサートはできず,芳子は衣装を見ただけで着てみることさえできず終わったのですが,看護士さんたちがこのすてきな赤い衣装を遺体に着せてくれました。さらに,これも陽子さんが作った(髪の毛が抜けた頭を覆う)可愛い毛糸の帽子をかぶり,まもなく病室に駆けつけた陽子さんに素敵な顔のお化粧をして貰い,まだ体が暖かい芳子はとても美しく見えました。

(8)
早朝に郡山のマンションから東京に,新幹線で向かっていた弟は,東京駅から直ぐ引き返し,川崎市の自宅で待機していた母(章子)も郡山へ急ぎました。集まった家族は,宏さん中心に相談し,郡山で火葬をしてから川崎へ帰ることを決めました。

芳子の音楽仲間のかなりの部分が,BCJ(バッハ・コレギウム・ジャパン)の定期公演(5/21 東京,5/22 神戸)に参加し,さらに後3日間の,神戸でのレコーディングの予定がありました。そこで,葬儀は彼らの日程が空く5月27日(木)ということに決まりました。今回の定期公演に参加しない波多野睦美さんが,芳子が喜びそうなすばらしい生け花を持って,「音楽仲間の代表として」午後から来て下さり,上のような段取りの打ち合わせに加わって頂いたことが,とても嬉しかったです。葬儀は,宏さんの他に「友人代表」も主催する側に加えた「小島芳子 お別れの会」を,ルーテル東京教会を借りて,しかし「無宗教」で開くことになりました。5月27日(木)午後7時からです。

宏さんが参加するはずのコンサートの代役を急遽引き受けてくれたガンバ奏者中野哲也さんは,福島県にお住まいであり,楽譜の受け取りを兼ねて,芳子のためのお庭に咲く草花の束とともに,病院に来て下さいました。

定期公演の曲目はバッハの「復活祭オラトリオ」,「昇天祭オラトリオ」で,本番前に出演者全員で芳子のために黙祷し,芳子への追悼の気持ちで演奏するという意味のことを鈴木雅明さんが発言された,と聞きました。BCJ のメンバーでもない芳子に対しての,皆様のこのお気持ちが大変ありがたいです。

(9) 
21日の午後3時に遺体を病院から,ある斎場の畳の間に移し,翌22日の11時から納棺,12時から出棺,1時から火葬場での火葬,という段取りで進みました。殆ど家族だけで火葬を,と考えていたのに,実際は予想しなかったほどの人数の方が来て下さいました。芳子をこれまで支えて下さったオレンジノートの永由さんご夫妻が21日夜にも,そして22日は火葬場での最後まで付き合って下さいました。芳子の東京芸大での直接の御弟子さんと言えるような学生が21日夜に3人,22日に4人,お別れに来てくれました。この方々の言葉や表情から「本当に芳子は,いい先生として学生たちに信頼され慕われていたのだ」と思うことにしました。何人もの人が向原の芳子・宏の家の合い鍵をもっていて,楽器を弾きに来ている,というのにビックリしました。そのうちの一人は修士2年で,(4)に書いた「試験コンサート」の人でした。

(10) 
これまでの闘病の過程を振り返ると,そこにはいくつかの岐路があります。治療法の選択を誤らなければ,まだ芳子は元気で,音楽活動を続けていたのでは,という後悔が残ります。

第一に,芳子の癌はいわゆる民間療法,免疫力を高めるというあれこれの民間療法(だけ)で立ち向かえるという種類のものでは全然ありませんでした。肺腺癌のなかでもきわめてたちの悪いものでした。第二に,10年前と違い,肺腺癌を含む非小細胞肺癌に対する有効な抗癌剤は格段に多くなり,使用法も進歩しています。

これら多数の抗癌剤を組合せて上手に使うことで,つまり,一人一人の個性と状況に合わせた柔軟で臨機応変な投与法を工夫することで,副作用をコントロールしながら癌の進行を抑えることが期待できたし,また,一つダメなら次を試みることができたのです。

芳子の場合,癌の発見時には何の自覚症状もなく完全に元気だったのですから,たとえ癌が治らないとしても,進行を抑えるだけで,元気な生活が維持できた筈です。手術を避けて適切な抗癌剤治療を始めていれば,せめて手術後の元気な時期からでも始めていれば,と今は思っています。

実際には,郡山転院のときには,全身状況が悪化しすぎていて,進行を止める現状維持ではまともな生活に戻れず,したがって「ガン細胞を減らさなければ」という意味での無理を強いられました。しかし,一方では全身状況が悪化していると,この無理ができません。このような矛盾がありました。

また,ダメなら次を試すという時間的余裕もすでに僅かになっていました。こうして芳子は未使用で有望なたくさんの薬のリストを持ったまま死ぬことになりました。心残りであるし,私は父としての責任を重く感じています。

(ここまで,2004年5月24日   小島順)

直線上に配置